ソロ花見

 今日は天気も良くて朝から洗濯機を回した。が、帰りが遅くなるので外に干しても取り込めない。でもいい天気だし。よし午前中は家にいようかな。と思ったところで外を見ると、目に入った桜。

 今住んでいる宿舎はちょっと小高い丘の上に建っていて、しかも五階なので(築40年の古い建物なのでエレベーターなどなく、毎日自転車をかついて上り下りするのは難儀だが)、眺めだけはよいのである。

 というわけで、午前中はあのあたりで花でも見ながら読書することに。サンドイッチ作って、携帯座布団と携帯アルコールバーナーセットとインスタントコーヒーと水にカメラを鞄に詰めていざ。

 


 まだちょっとつぼみも残っていて八分咲きくらいなのか。で、堤防の下に降りて店を広げる。下から見る桜もまた良い。


 二時間ほど本を読んで、お湯沸かして、お茶飲んで帰宅。相変わらずこのアルコールストーブセット素晴らしい。(このセットについて誰かに小一時間くらい解説したいのだが大人なので我慢している)

意外と読書もはかどったので大成功。洗濯物取り込んで仕事行くか。



 

よるとしなみ

 ここ数年、冬で水道水が冷たくなってくると、歯磨きのときに口をゆすぐのが辛い。奥歯に冷たい水が浸みるのだ。これは虫歯だろうなと思いながら放置していたのだが、今年もやはり痛い。他にも虫歯疑いがあったので、一念発起して歯医者に行ってみた。ら、虫歯はあるにはあるがさほど問題ではなく、むしろ歯周病が出はじめている方だ。と言われた。そしてとりあえず虫歯を治療して、歯石をガリガリとこすりとられ、患部に薬を塗られた。歯石を取るのがあまりにも辛くて、あと二、三回行かなければならないのだが、12月から行っていない。

 そしてここ数年、本当に急速に目が悪くなってきている。見えない。老眼がもうはじまってしまったのだろうかと思っていたのだが、最近、メガネを新しく作るときに、レンズ交換の専門店のようなところに行ったら、右目の視力がおかしいと言われた。レンズの度数を挙げても、見え方が変わらないと。たぶん近視だけではなく乱視も入っているが、それよりも、もしかしたら白内障かもしれませんよと言われ、眼科へ。

 検査して、写真撮ってもらったら、両目ともだが特に右目の水晶体的な部分が白く濁っている。たしかに数年前から右目はやたらまぶしく感じていたのだ。これは光が水晶体の白く濁っているところで乱反射するからだとのこと。医者曰く、まだ問題ない程度だが若年性だと進行が早いことが多いので、進んでしまったら手術するしかない。

 「白内障、手術」とかで検索してみるといろいろと情報が出てくるが、目薬で麻酔をかけて、水晶体を何やら振動させてプルプルにして吸い出して、そこにレンズを入れるというものらしい。なんだそれ。めちゃくちゃ怖いじゃないか。そして入れるレンズには単焦点と多焦点というのがあって、その違いは正直よくわからないのだが(正確に言えば理屈は分かるが実際どう違うのかはよくわからない)、単焦点は保険適応で数万円で多焦点は保険適応外で両目で60万とか70万とかするらしい。

 怖くて高い。そんな恐ろしいことにならないように、眼科で出してもらった進行を遅くする目薬をきちんと一日四回差す毎日である。そろそろ三十代最後の一年に入る。三十路はすべて霧の中であったが、霧の中だと思っていたのは白内障のせいだったのかしらん。

年の瀬

 もはや「はてな日記」ではなく「はてな年記」になっているここ数年の当ブログだが、せめて年記くらいは備忘録代わりに書いておこうと思う。
 本年の一番の大きな変化は言うまでもなく某大学に勤めはじめたことだろう。大分長い求職期間をどうにか終えて、とりあえずは滑り込んだ。心の中で他人を恨んだり猜んだり妬んだり嫉んだり貶めたり呪ったりすることが大分無くなったので、精神衛生上大変に良かったのだと思う。
 そういうわけで気が抜けてしまったというところが無かったとはとても言えない。研究成果という面では今年はあまり進めることができなかった。新規参加の某宗教系の学会で発表を一回。一月と二月にあと一回ずつ発表。論文は出せず。このブログに乗せた落語「黄金餅」についての雑文くらいだ。でも、結構この文章は気に入っているので、いずれどうにかしてどこかに出せたらなぁとは思っている。
 夏はここ数年続けている某ソロモン諸島でのフィールドワークを実施。それなりに面白いことは見つけられたが、早く形にしないとまずいなあ。ちょっとした状況の変化があったので、来年もまた参加することになると思うが、大分「慣れて」しまったのでちょっと自分なりに刺激を入れていかないとマンネリ化してよろしくないなとも。
 授業は夏は本務校で講義2にゼミ1、非常勤で講義1、冬は本務校のみ講義3とゼミ1。初年度ということで授業は夏の1コマ免除してもらったので、負担としては去年までの非常勤生活よりもだいぶ楽に。ということで、だいたいの授業は新作を仕込んだので、楽なはずがそれなりに授業するための勉強はたくさんした。
 某大は小規模でのんびりした感じの学校なので、専門の講義なら受講者がだいたい20-40人程度で大変に話をしやすい。コメントシートも皆ちゃんと書いてくれるので、丁寧に話を進めていけてやりやすい。後期の授業は特になかなか良い感じでできているのではないかと思っているところ。
 講義はよいのだが、反面でゼミはほぼ初めてなので試行錯誤中。今、ちょうど卒論の時期なのだが、もう少しどうにかやりようがあったなと反省している。正直、卒論の時に書き方なんて何も教わらなかったので、どうやって教えたらいいのかよく分からないのだが、今の三年生にはもう少しいろいろと早めに仕込んでおこうと思ったりしているが、しかしどうしたものやら。こればかりは個人差も大きいし。
 周囲の人たちはみな忙しい忙しいと言っている校務については今年度は初年度でほぼ免除。来年からどうなることかは分からないが、仕事を振りにくそうな顔はしていようと思う。

 プライベートでは職場が地方になったので、某妻とは別居状態。最初は寂しかったが大分慣れたような、慣れたようで寂しいような、まあそんな感じ。月二回くらいは帰京、長期休暇も東京に来ているので交通費はだいぶかかっている。モバイルSuicaエクスプレス予約超便利。一人分の食事というのがなかなかうまくいかずに、体はだいぶ弛んでしまっている気がするので来年はどうにかしたいな。自転車の室内用のローラーを買って、週二回くらい漕いでいるが、このくらいでは体形には影響ない。しかし自転車のタイム的には少し早くなっているような気もする。
 地方生活で車が必要かとも思ったが意外と無くてもなんとかなっている。自転車ラブ。現在は7年前にヤフオクで買ったアルミのロードバイクGIOSと去年買ったクロモリのミニベロの二台体制。静岡まで行ったり、奈良から帰ってきたりとなかなかに楽しんでいる。来年は二、三日かけて紀伊半島一周したいなぁなどと企んでいたりする。そのためには新しい自転車が、、、。来年は倹約に励んで新車購入したいね。フルカーボンの格好いいやつを。

 最後に鬼を爆笑させるために言っておくと、来年の目標はいい加減に博論を加筆訂正して出版にまで漕ぎつけたいね。そして昨年末に書いて果たせなかった、某ネタの論文をきちんと書くことだな。あと頼まれた仕事が年を越してしまったのでそれは年明け早々やる。

 というわけで、ちょっと早いが2015年のまとめでした。読んでいる人がもしいたらよいお年を。

黄金餅の経済人類学

 ふと思い立ったので、半年ほど前にとある勉強会向けに書いた文章を出してみようと思う。
テーマは「黄金餅」という古典落語についてである。まぁ、ごたくは抜きにして、さっそくはじめよう。

ーーーーーー
古典落語黄金餅という噺がある。まずは粗筋を紹介しよう。

(1)下谷山崎町にある貧乏長屋。この長屋に西念という貧乏坊主が暮らしていた。どこかで不幸があったと聞いては押しかけて念仏を唱え、不幸がなくても通りの店の前で勝手に念仏を唱えては小金をせびる。題目も南無妙法蓮華経のこともあれば、南無阿弥陀仏のこともある。こうして集めた小金を貯め込むことが西念の生き甲斐である。

(2)そんなある日、風邪をこじらせて寝込む西念。そこに隣の部屋に住む金山寺味噌売りの金兵衛が様子を見に来る。金兵衛は医者にかかった方がいい、薬を飲んだ方がいいと勧めるが、西念はそんなものにカネを払いたくない。じゃあせめて食いたいものでも食えと、金兵衛は西念が食べたがった餡ころ餅を近所の餅屋から大量に買ってきてやる。西念は礼を言うが、もちろんカネは出さない。挙げ句、人が見ていると食べられないからと金兵衛を部屋から追い出す。

(3)金兵衛は不満げに部屋に戻るも西念の様子が気になる。壁の穴からのぞいてみると、西念は妙な動きをしている。餡ころ餅の餡と餅をより分けて、餅になにかを包んで一心に飲み込んでいるのである。よく見ると包んでいるのは、西念が貯め込んでいるカネだった。かなりの量である。「あの野郎、貯め込んでやがったな」と様子を見ていると、西念が苦しみ出す。あれだけたくさんの餅を飲み込めばそうもなるだろう。金兵衛が慌てて部屋に飛び込むが、西念はそのまま死んでしまった。

(4)金兵衛は西念が飲み込んだカネをどうにかして手にしたい。そこで一計を案じ、死体を火葬した後の骨揚げのときにカネを取り出すことにする。西念を死を大家に報告し、長屋で簡単な見送りを済ませた後、その辺にあった菜漬けの樽に入れた西念の死体を金兵衛に縁のある麻布の寺まで長屋の連中みんなで運んでいく。

(5)麻布の貧乏寺での供養が終わると長屋の連中を追い返し、金兵衛は一人深い闇の中を西念の死体を担いで桐ヶ谷の焼き場へ。焼き場に着くと金兵衛は職人(隠坊)を叩き起こして、「仏の遺言で腹だけは生焼けにしてくれ」と注文を付けていったん品川へ。一杯やって夜が明けると、金兵衛は焼き場へ戻る。焼けた死体の腹を鰺切り包丁で開き、西念が貯め込んだ大金をせしめることに成功する。骨をどうするんだという隠亡に「うるせえ、犬にでも食わせろ」と吐き捨て、焼き賃も払わずに金兵衛は去っていく。

(6)「このカネを持ちまして目黒へ行き、餅屋を出しまして、たいそう繁盛をいたしました。江戸の名物黄金餅の由来の一席でございました。」

 えっ?終わりなの?

 びっくりするくらいあっさりとこの話は終わる。最後のフレーズは古今亭志ん生の演*1からそのまま持って来たものだが、たった七秒、一息で言い切る。すでにストーリーは終わっていて後日談として付け加えられているという体のサゲである。
 この噺になにか引っかかるところを感じない人はあまりいないのではなかろうか。わたしが最初にこの噺を知ったのは、立川談笑の独演会*2に行く前に、その日のトリで演じる*3というこの噺の予習として、談笑の師匠である談志の演をyoutubeで聴いたときであった。一回聴いてみて、あまりにも意味が分からなくてすぐにもう一回聴き直し、やっぱりどうにも落ち着くことが出来ずに頭の中がモヤモヤした。そして、その日の談笑の演を聴いて膝を打った。膝が痛めるくらい打った。談笑はこの噺の最後を変えて演じるのだが、その変わった部分についてはまた後ほど触れよう。

 とにかく黄金餅は聴き手になにかの引っかかりを残す噺である。引っかかるポイントは恐らくは皆似たようなところだろう。死体の腹を掻っ捌いてカネを奪い、骨は犬に食わせろと捨て台詞を残して去っていった金兵衛になんの罰も下らないというストーリーの終わり方である。わたしたちのモラルで言えば、人のカネを奪うことも罪ならば、死体を蔑ろにすることも罪であり、金兵衛は然るべき罰を受けるべきである。それでこそ落ち(オチ)着ける。しかし、この噺では金兵衛は何の罰も受けない。それどころか奪ったカネではじめた餅屋は大繁盛し、後の世にまで名が知られる江戸の名物になってしまうのである。

 わたしたちは困惑する。この噺の中の江戸の街では、金兵衛がやっていることはモラルに適った行為なのだろうか。もし、この違和感が江戸の人々のモラルとわたしたちのそれとのあいだのズレに起因するのであれば、これは人類学のお得意の問題である。一見非合理に見える彼らの行為だけれども、これはローカルなコンテクストに照らし合わせてみればモラルに適った行為であるはずだ。翻ってそれを「おかしい」と感じたところのわれわれのモラルはいかにして成り立っているのだろうか、云々。この方向でやっていく可能性は少なからずあるだろう。この噺をする落語家も、少しでも聴く側が共感できるように、その背景や設定を出来る限り入れ込んでくる演出をする場合も少なくない。だが、わたしには残念ながら江戸の街での生活風俗についての知識はない。また、おそらくはわたしたちと彼らのモラルが同じ/違うという二択で論じても、あまり益はあるまい。と開き直らせていただいて、場所・時代のコンテクストに差し戻してこのストーリーとそれを前にしたわれわれの感覚とのズレ、異同を検討するという人類学者がすべきであろう仕事は差し当たって放棄させていただく。

 で、ここからわたしが取り組んでみたいのは、この噺のストーリー自体の検討である。設定や展開、使われている道具、そして演ずる落語家が足したり引いたりする「くすぐり」を、一昔前の構造分析風に読み解いてみたい。いわばレヴィ=ストロースアメリカ大陸の神話で、岩井克人が『ベニスの商人』でやったことのまねごとである。そこからなにか分かるかもしれないし、分からないかもしれない。

*1:「NHK落語名人選1 五代目 古今亭 志ん生 黄金餅・火焔太鼓」2004年、ユニバーサルミュージック。以下、志ん生の演に言及するときはこの音源についてである。

*2:会場は下谷山崎町にほど近い上野広小路亭だった。

*3:落語会は事前に何の演目をやるか発表してある−「ネタ出し」をする−場合と、そうではない場合がある。寄席などでは普通はネタ出しはせずに、その日の他の演者のネタとの兼ね合いでその場で決める。このときはネタ出しをしている独演会だった。

黄金餅の経済人類学

■5■餅には餡をまぶしつけると一番美味い
 金兵衛はそのまま江戸の町中の貧乏長屋には戻らず、目黒で餅屋をはじめる。外部から贈与の一撃を受取った金兵衛は、貧乏長屋的G-W-Gの無限連鎖からテイクオフし、GをG´に変えていく秘密を手に入れたのである。守銭奴v.s.市場の対決における、市場側の英雄・金兵衛はそのまま市場で活躍する。カネも「天下の通用」として市場を回り続ける。このように市場イデオロギーの側から読んでみれば、黄金餅は、野蛮人西念の腹の中から、貨幣を解放する正義の物語だったのである。

この解釈は、島岡光一『落語「黄金餅(こがねもち)」の経済学外論』(1993 近代文芸社刊)でも示されている。

 ただ金を貯め込んでいる西念さんのような方を、失礼ながらマルクスさんは「気の違った資本家」と呼び、それを元手として金儲けをする金兵衛さんのような方を「合理的な貯金者」とまで言っています。(中略)
 金兵衛さんは別に餅屋になりたかったのではありませんナ。お金を儲けたかったンです。たまたま西念さんが死際に餡ころ餅にお金を包んで食べたという故事にちなんだまでです。
 「黄金餅」には下げがありませんから、どんなにお笑いが多くても人情話の仲間に入れられます。手前、非人情話じゃァないかと思うンですが。お金はこのように非情なものですからナ。強いていえば貨幣の資本への転化 これがこの話の下げ、落ちでございましょう。(島岡1993:74-77)

 基本的にはこの解釈で問題ないようにも思えるのだが、しかし、どうしてもこの解釈ではこの話の気持ち悪さを捉え切れていない気もする。

 金兵衛は餅屋になるのである。物語とは言え、まあよくもそんな悪趣味なものを選べたものだと思う。これを「たまたま」で片付けてしまって本当にいいのだろうか。わたしは金兵衛はカネを解放した市場のヒーローの仮面をかぶりながら、その裏側で食糞愛好の悪癖に苦しんでいた変態だったのではないかと想像する。彼は西念の体内のカネを解放したのではなくて、再び食べてしまったのではないか。

 黄金餅がどんな餅なのかは話の中では説明されない。一説には黄金餅目黒不動の縁日のときに出る名物で、「黄金」は栗のことで、栗の餡を餅にまとわせたものだとも言う。上品に餡を中に包み込んだ大福ではない。餅は餡を外側にまぶしつけたときに一番美味しくなるのである。カネは両義的であることをやめない。それは使いたいが、常に貯めたいのである。

 貯めたい男と使いたい(でも本当は貯めたい)男の物語はこうして、餡からより分けた餅、から取り出したカネで買った餅、に再び栗餡をまぶしつけたところで終わる。島岡が言うような単純な貨幣の解放の物語ではなく、どちらかと言えば岩井克人の論ずる貨幣の循環をモチーフとした物語と読むべきである。これは落語のオチの形で言えば、「回りオチ」*1ということになる。

 最後は本職に任せることにしたい。冒頭でわたしが膝を打ったと書いた談笑バージョンのサゲを紹介しよう(文章で読むよりも実際に見た方がよい。上のyoutubeで見てください。)他人のふんどしで相撲を取るとはこのことであるが、これを結論にしておひらきにさせていただきたい。

と、お馴染みのおめでたい一席ではございますが、えー、ところがこんなかたちで身についたカネっていうのは、やっぱり、(西念の)念が残って使えないんでございますね。せっかく懐にカネが入っても減るのが惜しい。恐いという。
で、こうしてカネを貯め込んでいるときに、ふとしたことから風邪をこじらせて、どっっ、と寝付いた。すると隣に住んでいるヤツが、トントン(扇子で床を叩いて)、金兵衛さん、お見舞いに来たよ。

*1:天狗裁き」などが有名。居眠りしている夫がニヤニヤしているのを見て、妻が起こし「お前さん、どんな夢見てたんだい」と聞くが夫は夢など見ていないという。妻はあんなに楽しそうだったのを教えてくれないなんて酷い、別れてやると怒り出す。そこに隣人が仲裁に入る。妻が離れた後、隣人は「まあ、夢ってのは女房に言えないものもあるよな。なあ、教えてくれよ、言わねえからさ」と言うが「見てないものは見てない」と断る。と隣人は怒り出してしまう。「助けてやったのになんて言いぐさだ。」そこに今度は大家が仲裁に入り、、、結局大家も怒る、奉行仲裁に入る、奉行怒る、天狗が助けてくれる、天狗も怒り出す、、、、というのがすべて夢で、その中で笑ったり泣いたりと大変な思いをしていたところをようやく妻に起こされた。「お前さん、どんな夢見てたんだい」。

黄金餅の経済人類学

■4■死体の三角形
 貧乏寺でいい加減な供養を済ませた後、金兵衛は長屋の連中を追い返し、夜闇の中をたった一人で、西念の死体を担いでさらに南に下っていく。焼き場は桐ヶ谷にある。最寄りは東急目黒線不動前駅から徒歩七分、あるいは山手線五反田駅からバスかタクシーならだいたいワンメーターの距離。現在でも桐ヶ谷斎場として火葬場と葬儀場がある。目黒は、この噺の最後に金兵衛が餅屋を出す場所である。

 麻布が江戸の周辺部、外部との境目であるとするならば目黒は完全に外部である。「目黒のさんま」で殿様が鷹狩りに来るのが、この目黒のあたりである。もはや江戸ではない。ちなみにそこで殿様が絶賛したさんまは「隠亡焼き」と呼ばれるもので、網や串、鉄板などを用いずに、炭の中に直接サンマを突っ込んで焼いたものだという*1。たしかに美味そうだが、味はさておき、見逃せないのはその名前、「隠亡焼き」である。隠亡(おんぼ、おんぼう)とは焼き場で死者を荼毘に付すのを生業とする者で、猫の皮剥ぎと同じく賤民階級である。江戸の真ん中に住む殿様が、目黒まで来て「隠亡」焼きのサンマを美味いと大喜びするというストーリーが、庶民にとってなんとも痛快だったことは容易に想像できる。目黒にほど近い桐ヶ谷の焼き場のことを聴衆が連想しなかったはずはない。

 さて、江戸の町から完全に出て、桐ヶ谷の火葬場までたどり着いた金兵衛。もはやここは「この世」にあって、もっとも「あの世」に近いところに違いない。ようやく西念の体内の「あの世」と外側の気圧差が無くなったところで、カネを取り出すために死体に手を付ける。

 ではどのように死体からカネが取り出されたのか。ここでは迂遠なようであるが、この噺の中における西念の死体の取り扱いの方法を振り返り、レヴィ=ストロースの「料理の三角形」を援用して捉えなおしてみたい。

 西念の死体そのものは、まったく手を付けられていない「生まのもの」である。処理されていないままの状態にある死体は、なんらかの形で処理されなければならない。先述したとおり、江戸の町では死体の適切な処理には二つの方法があった。ひとつは火葬、もう一つが土葬である。言うまでもない。火葬を「火にかけたもの」の位置に、土葬を「腐ったもの」の位置が重ね合わせることができる。

 金兵衛が土葬ではなく火葬を選択したのは、土葬という「自然」な処理方法、すなわち人間が手を加えずに死体をそのまま埋めるのでは、死体からカネを取り出すチャンスがないからである。火葬という「文化的」な方法では、死体は人の手で加工される。そこに骨に加工されるあいだの過程に金兵衛が入り込む余地が出来るのである。しかし、このような二項対立が組み合わされて構築されている人間の死体の処理の三角形の中において、西念の死体はどうもぴったりとおさまりきらないところがある。

 まず西念の死体が入れられるのは「菜漬の樽」である。死体が早桶に入れられるのは、土葬においても火葬においても同じなのだが、貧乏長屋では早桶を買うことができない。そこで、本来は食べ物を入れるべき容器に、死体を入れるというイレギュラーな状況が出来する。死体として処理すべきものを食べ物のように取り扱うことは、先だって見た排泄物と食べ物の中間的な存在であった餡ころ餅を思い起こさせる。西念は、死体としてあの世に送られる(排泄される)べきものでありながら、貨幣としてこの世で「食べられ」なければならない。西念の死体と食べ物の結びつきは、各演者が細かなくすぐりで何度も繰り返している。西念が死んだすぐ後で、金兵衛は「ケツから棒でも突っ込んだら出てこねえかな、ところてんなら出てくるんだけど」と言う。焼き場に持ち込んだときも、「なんだい?菜漬け持って来たのかい」と勘違いされる(菜漬の樽なのだから、あたりまえだ)。金兵衛が「焼けたか焼けたか−」と勢いよく焼き場に戻ってくると、隠亡は「焼けたかってイモじゃねぇんだぞ」と答える。この噺では、西念の死体は最後まで、死体であり同時に食べ物であるというどっちつかずの位置を保ち続けるのである。

 さらに死体が入れられたのが他の何に使われる樽でもなく、「菜漬」の樽だという点にも注目したい。漬け物は発酵という「自然」の処理方法で作られる食べ物である。レヴィ=ストロースの分類を用いれば、これは明らかに「腐ったもの」である。したがって、土葬にされるのであれば、ある意味ではその過程として適切な処置であるとみることもできるが、しかしこの樽は焼かれてしまう。すなわち西念の死体は、土葬=「自然」の方法をとりながら、しかし火葬=「文化」の方法で処理されるのである。ここでも西念の死体の両義性は慎重に保たれている。

 最後の極めつけが、西念の死体の焼き方である。もうお分かりだろう。金兵衛は隠坊に西念の死体の焼き方の注文をつける。「頭と足の方はホンガリ焼いて腹は生焼にはなりますまいか(圓朝)。*2」腹までしっかり焼かれると、カネが溶けてしまうからである。結果、腹のカネは上手い具合に溶けず、手足などの末端はきちんと焼けて骨になった。つまりは西念の死体は火で焼かれて骨になったが、同時に生のままで残されたのである。こんな中途半端な死体が他にあろうか。

 西念はこの世で貯め込んだカネを懐に入れたまま、あの世にあと一歩のところまで迫った。しかし、この世である江戸の町中からあの世の際まで、執念深く追いかけてきた金兵衛から逃げ切ることはできなかった。

 ここで西念の死体をもう一度観察してみよう。生焼けのままの白い腹、その周りにからむ灰と骨になった手足。腹の中にはカネが包み込まれている。何かに似てはいないか。餅とそのまわりにまぶしつけられた餡、そしてその餅の中に包み込まれたカネ。そうである。西念の死に際のあの餡ころ餅は、彼自身の死体に形を変えて物語の最後に再び登場するのである。

 西念が餡と餅をより分けて、餡を捨てて、カネを包み込んだ餅に執心したのと同じように、金兵衛は骨については「犬にでもやっちまえ」と捨ておき、恐ろしい形相で腹に向き合う。鰺切り包丁で腹を切り開き、ついに中から光り輝くカネを取り出すのである。金兵衛はそれを飲み込みはしない。こうして餅の中に包まれたカネは、餅の中から解放された。

*1:ウィキペディア「目黒のサンマ」によれば、である。

*2:談志演では金兵衛が焼き方を「ミディアムレアで」と指定する。また談笑演では、金兵衛が「強火の遠火でな」というと、隠坊も「実はおれは日本料理の焼き方をやっていて」などと応える。さらに付け加えれば、談笑演ではこの後、焼き上がった西念の死体を前にして金兵衛が「見事、さすがプロ」と褒めた後、「ばかやろう、スダチはいらねえんだ」と演じる。「目黒のさんま」からの西念の隠亡焼きである。

黄金餅の経済人類学

■3■百鬼夜行
 金兵衛率いる貧乏長屋御一行は、江戸の中心にある浅草から南へ南へと下って行く。この道中を町名や建物、名物などを紹介しながら調子よく話していくくだりを「道中付け」といい、この噺のひとつの聴かせどころである。もともとの形である圓朝のバージョンでは、貧乏長屋があるのが芝金杉橋なので、麻布にほど近く道中付けはない。(と言っても圓朝バージョンでも大家は麻布を「どうも大変に遠いね」と言っている。そして、先述したように、ここも三大貧民窟のひとつである。江戸の町中にあるとんでもない貧乏地帯から江戸の「外部」へ行くという移行の構造は基本的に変わらない。)ここを現在の形に変えたのは四代目橘屋円蔵(1864-1922)であると言われているが、なんといってもこの道中付けで有名なのは、志ん生である。

下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出まして、そのころ堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっすぐに、筋違御門から大通りへ出まして、神田の須田町へ出まして、新石町から鍛治町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町から室町へ出まして、日本橋を渡りまして、通四丁目から中橋へ出まして、南伝馬町から京橋を渡ってまっすぐに、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新し橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、神谷町から飯倉六丁目へ出まして、坂をあがって飯倉片町、そのころおかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出まして、大黒坂をあがって一本松から釜無村の木蓮寺に来たときには‥‥ずいぶんみんなくたびれた」(志ん生 1956.3.28 NHK)

http://www.tubakimine-nisi.net/kudaranai-hanasi-ky2.html

 この長調子をやった後、志ん生は「あたしもずいぶんくたびれた」とやって笑いをとる。各演者が工夫を凝らして演じるが、談志は一通りやった後で「今はこんな面倒なこと言わないで、上野のところからハイウェイに上がって飯倉で降りて、これでいいんだけどね」と現代風にやりなおしたり、あるいはその弟子の談笑は「上野御徒町大江戸線に乗って麻布十番で降りる」と演じたり*1

 以下の地図はウェブサイト「落語の舞台を歩く」の第16話「黄金餅の舞台を歩く」より拝借
http://ginjo.fc2web.com/016koganemoti/kogane_tizu.GIF

 さて、こう書くと華やかな江戸縦断ツアーであるが、噺の設定を思い起こしてみると実際に金兵衛たちがここを歩くのは夜中である。神田や日本橋、銀座のような繁華街の大通りを、夜中、死体を入れた菜漬の樽を担いで、いつもはジメジメした路地裏でくすぶっている貧乏長屋一行が歩いていく。想像してみると、極端な光と影のコントラストが演出されていることが分かる。この様子の異常さは貧乏長屋の連中の外見の異形さに言及することでいっそう強調される。志ん生は提灯がみんなデタラメだ*2と言い、談志、円菊は左足が草履で右足は下駄で左右揃っているやつは誰もいないと演じ、談笑はさらに中には義足のやつもいて、などといろいろと足した上で「百鬼夜行」だとまとめている。

 昼間は華やかな大通りを、夜中、貧乏人たちが異常な格好をして行進する。これが日常から非日常への移行の手続きであるということは論を待たないだろう。江戸の街中から外れへ、市中から寺院へ、この世からあの世へ。貧乏長屋の異形の弔い行列は江戸の町を南へ南へと進んでいく。

 こうしてたどり着いた先は麻布絶口釜無村の木蓮寺。すでに書いたとおり、江戸時代の麻布は草深いど田舎である。「狸穴」なんて地名も残っている。神田や日本橋に住む人はこんなところには来たがらないというような「外れ」である*3。華やかな大通りをわざわざ夜中歩かせてきた、暗さ、貧しさの演出はここでも徹底している。麻布「絶口*4」、「釜無」村という地名は、言うまでもなくその村の貧しさを言い表している。貧乏市腹減り村一丁目一番地みたいなものである。もちろん木蓮寺も抜かりなく貧乏寺である。住職の貧乏アル中坊主は寺の中のあらゆるものを質に入れてしまい、酒屋の掛け取りに神経を尖らせている。仏像も木魚も鈴も何もないのでお経のあいだの「チーン」は欠けた茶碗である。談志は「本堂にも何にもない。なんっにもないんだからね、本当に(談志イ23:20〜)」と語気を強めて演じている。ここには何もないのである。特に金目のものは何も。ただひとつ、西念の体内に埋蔵されたカネを除いて。

*1:聴かせどころだと演者も客も分かっているので、演じた後で拍手が起こるのを待つような場合もあり、ちょっとあざとい感じにも聞こえないこともない。上手いのかあざといのかは結局は腕次第なのだろう。志ん朝は実にさらっと演じるし、談志も露骨に拍手を待つ間はあけない。あざとさが鼻につくのが嫌なのか。ところがおおもとの志ん生自身は先述の通り「あたしも大分くたびれた」で間をあけて笑いを取りにいく。がそれは決してあざといとは聞こえない。

*2:志ん朝は、箱提灯があれば弓張提灯もあり、中には盆提灯持っているやつもいる、と演じる。志ん朝はさらに「中には赤い地に“酒”と書いてあったり」などと足している。

*3:吉原の郭噺のマクラでしばしば「弔いが山谷と聞いて親父行き」という川柳が引かれるが、これの対となる句に「弔いが麻布と聞いて人頼み」というものがあるという。それくらい田舎だったということである。

*4:現在の麻布には「絶江坂」がある。